![]() 19. 王様と私あなたはシャムボジアという王国を御存知だろうか?カンボジアではない。タイでもない。シャムボジアである。「そんな国はない」ですって?御冗談を。現に、私はその国の王家の家庭教師をしているのです。 私は某大学の英文科を卒業し、数年間サラリーマンをしていたが、折角学んだ語学を役に立てる機会もなく、毎日毎日同じような仕事をすることに飽き、サラリーマンは男子一生の仕事ではないと思うようになった。一念発起して貯金を全部はたいて、イギリスのオックスフォード大に留学することにした。英文学だけでなく、ラテン語とフランス語も学んだ。いくつかの研究論文によって、私は次第に教授たちにも認められる存在となった。卒業出来るだけの単位は取得したが、学者になる道は前途遼遠だし、またぞろ退屈な会社勤めをする気にもならず、私は研究生として大学に留まり、法学と国際政治学も学んだ。オックスフォード訛りが完全に身についてしまった。休みにはフランス、イタリア、スペイン、ドイツなどに旅行し、各国の文化や人々の考え方、行動パターンなどを研究したりした。 ある日、私は主任教授に呼ばれた。 シャムボジアは以前イギリスの属国だったため、王家と貴族の子弟は長く英語教育を受けていた。特に王家はオックスフォードやケンブリッジを出た優秀な家庭教師を雇い、子弟を完璧な紳士淑女に育てようと努力していた。先王の時代にイギリスから独立し、立憲君主制の国となったが、それでもなおイギリス寄りの姿勢は変わっていない。 シャムボジア国王は、ユル・ブリンナーのようなスキンヘッドでもチョウ・ユンファのような短髪でもなく、われわれと変わらぬ七三の髪型だった。背は高くがっしりとして、いかにもスポーツマンという感じ。衣装はアジア系の長袖上着を着ているが、ズボンは黒スーツのズボンのようなもので、シャープなプリーツによってフォーマルさを強調している。 国王には、上は王位継承者のアンアン王女(22歳)から、下はシンシン王女(6歳)まで12人の娘たちがいた。年長の四人(22〜17歳)は第一王妃が生んだ娘たち、16〜11歳の王女たちは第二王妃の娘たち、10歳〜6歳の王女たちは第三王妃の娘たちであった。どの王妃も年子を生んだ後他界していた。日本には「男の精力が強いと女の子が生まれ、女の精力が強いと男の子が生まれる」という俗説がある。女の子ばかりが生まれたシャムボジア国王の精力は推して知るべしであろう。全ての王妃たちを年子の出産で失って悲嘆に暮れた国王は、以後正妻を娶ろうとしなかった。 私が着任した夜、晩餐会後の余興で12人の王女たちによるバレエが演じられた。10歳以下の幼い王女たちの踊りは、まだバレエと云えるものではなかったが、そのあどけなさが感動的だった。第二王妃が生んだ王女たち(11〜16歳)は、ほとんど平らな胸をしていたが、彼女たちのもっこりした恥丘の膨らみには驚かされた。私はロリコンではなかったが、青い世代の少女たちもセクシーであることが分った。私にとって最も色っぽかったのは第一王妃が生んだ17〜22歳の王女たちである。特に22歳のアンアンと20歳のインインの膨らんだ胸、腰、太股が魅力的であった。アンアンは落ち着いた才色兼備の美女で、インインはこぼれるような色気の持ち主である。 私は12歳から下の低学年の王女六人を午前中に教え、14歳から上の王女たちを午後に教えることにした。理解力が異なる生徒たちに同じことを教えても無意味だからだ。王女たちは授業のない時間帯にはバレエやピアノのレッスン、スポーツ、ゲームなどに専念する。午後四時には授業やお稽古ごとは全て終り、自由時間である。王女たちがプールで泳ぎ出すと、私も水泳パンツで参加し、デッキチェアに座って王女たちの身体を観賞した。バレエの夕べで印象的だった王女たちの股間のもっこりを見ると、私の股間ももっこりした。 国王は多趣味であった。大概のスポーツは人並み以上の腕前で、特にピンポンは得意中の得意だそうだ。チェスなどのボードゲームにも熱心だった。ピンポンとチェスは、アメリカの宇宙飛行士から教わったのだそうだ。ある時、地球に帰還した宇宙飛行士が操作ミスでシャムボジア領海内に不時着し、スパイ容疑が晴れるまで長いこと捕虜となった。その際にその宇宙飛行士からピンポンとチェスを教わったのだそうだ。私はその話はどっかで読んだような気がした。 私は碁盤と碁石を持っていたので、連珠(五目並べ)を教えようとした。しかし、これも「三々は打っても打たされても負け」などというルールが理解されなかった。仕方なく私は国王に本碁を教え始めた。これは理解された。占領した領土の広大さで勝ち負けを決めるのは実際の国家関係に酷似していたし、兵士(石)が敵に取り囲まれれば死ぬというルールも現実に即していた。国王は負けても負けても臆せず、いつか私を打ち負かそうと研究に励んだ。 ある日の午後、私は例によってプールサイドで王女たちのもっこりを観賞していた。 「陛下。私をシャムボジア女性の誰かと結婚させようというお考えですか?」私はうろたえた。この国で結婚して、この地に骨を埋める気などなかったからだ。 「ところで、君にとって最も屈辱的なことは何かね?」と国王。 ある日、私は王女アンアンの部屋を訪れた。 「わたくし、エクスタシーも知っております」とアンアン。「でも、随分昔のことで、もう忘れそう。先生がおまんこして私をイかしてくれれば、こんな嬉しいことはありませぬ」 いよいよ国王との対戦が開始された。囲碁の伝統的ハンデキャップの付け方に、25個〜2個の石を先に盤面に置いておく「置き碁」(http://ja.wikipedia.org/wiki/置き碁)と呼ばれる方法がある。私は国王に四隅と中央に13の石を置かせる「星目風鈴(せいもくふうりん)」というハンデを与えた。四隅だと領土を構築し易いので、これを相手とするのは手強い。しかし、私は「鶴の巣篭もり」とか「追い落とし」などの奇手を用い、難なく国王を打ち破った。アンアンをアンパイヤにして、テニスの対戦も行なわれた。テニスは英国の伝統的スポーツであるからして、私もオックスフォードではよくプレイし、基本的技術はマスターしていた。しかし、長身の国王が放つサーブやスマッシュは力強く、私はたじたじとなり、初戦はあっけなく敗退した。勝負無し。 国王が碁の研究をしている一週間、私はアンアンの特訓を受けた。私とおまんこしたいアンアンも必死である。彼女の勧めで、私はロブとドロップ・ショットの特訓に励んだ。翌週、私は国王をネット際におびき寄せておいて、高いロブで彼の後方にボールを放ち、それを警戒した彼がベースラインに留まればネット際へのドロップ・ショットで得点した。頭脳プレーが国王のパワフルなプレーに勝ったのだ。国王はラケットを抛り投げて悔しがった。碁も私の勝ちで、ついに私はアンアンとおまんこする権利を得た。 「明日、町へ行ってコンドームを買って来ます」私が王女アンアンに云った。 王女アンアンの寝室に初めて入った。エアコンが快適に利いている。ベッドの四隅に一本ずつ柱が立っており、紗の垂れ幕が優雅に掛かっている。さすが王女のベッドである。ピンクのシーツにピンクの薄い掛け布団。22歳のベッドにピンク色は可愛過ぎる気もするが、独身なのだからいいのだろう。ベッドのこちら側で私が、向こう側で王女が裸になった。熟した乳房がブラの枷を解かれてぶるんぶるんと自由を謳歌した。豊かに肉づいたお尻、盛り上がった恥丘、くっきりと谷間を形成する割れ目。私のペニスはびよーん!と勃起した。 姫がベッドに上がった。私もこっちからベッドに上がった。私たちはベッドの中央で膝立ちで抱き合った。私は王女に頬ずりしながら、王女の身体を撫で廻し、あらゆるところをまさぐった。乳房を揉み、尻を揉み、股の間の陰毛や割れ目に触った。素晴らしい肉体だった。私は王女の身体をそっと寝かせると、唇にキスした。王女の甘い舌を舐める。私は口を乳房に移し、王女の乳首をしゃぶった。 私は王女のおっぱいを揉みしだきながら、ペニスで王女の上の膣壁、右の膣壁、下の膣壁、左の膣壁…と突きまくった。その間に互いの恥骨を擦り合せる。 「次はゴルフだ」と国王が云った。 私は王女インイン(20歳)と話した。 御存知のようにゴルフは英国生まれのスポーツである。父に強引に誘われて日本で何度かラウンドしたことがある私は、オックスフォード周辺のゴルフ場でプレイしたことがあるだけでなく、何と“ゴルフ発祥の地”と呼ばれるセント・アンドリュースでもそこそこのスコアで廻ったことがあるのだ。ある日、国王と私はロイヤル・シャムボジアG.C.で18ホールのマッチプレーを行なった。国王のゴルフはドライヴァーでかっ飛ばす快感を追求するだけで、ショートゲームがからきし駄目であった。私は問題なく国王に勝ち、インインの寝室に招かれた。 芳紀20歳のインインは、全裸で惜しげもなく豊満な肉体を曝け出して待っていてくれた。私が服を脱ぐのも待ち切れない様子で、インインはすぐさま私のペニスに食いつき、フェラチオを始めた。王位継承者ではないが、この国の第二王女である。私はぶったまげた。しかし、インインはフェラチオが上手だった。私はインインの口内で射精し、しばらく休憩した後、二回おまんこした。 「君、ビリヤードはどうかね?」と国王が云った。 三番目の王女ウンウンは18歳である。彼女とやれれば、彼女は私にとって初めての未成年の相手となる。私はわくわくした。姉たちが私とのセックスを絶賛していたので、清楚で慎ましやかなウンウンも私とおまんこしたがっていた。セックスの欲望に燃えたウンウンは、城内に設けられたビリヤード室で私にプールのコツを伝授してくれた。ルールと得点法は異なるものの、基本技術は四つ球と変わらない。私は一週間で点の取り方を飲み込んだ。自分でも驚いたのだが、国王とのプールの試合に勝ってしまい、18歳の王女を抱くことが出来た。 王女を賭けた勝負とは別に、国王への指導碁は日に一度継続していて、国王のハンデキャップは星目風鈴(13個の置き石)から九子局(置き石は九つ)に減っていた。国王も石の戦闘と領土拡大の仕方に習熟し始めた。 国王は四女エンエン姫(17歳)を賭けてピストル射撃の対戦を申し出た。日本でピストルが射てるのは警官と暴力団員だけである。それを知っている国王が連敗をストップさせる方策として選んだ競技であった。私はピストルは撃ったことはないが、ピストルと全く無縁でもなかった。父が警視庁刑事だったから、父に隠れて密かに父のピストルをいじくり廻していたし、父の射撃教本も読んでコツを飲み込んでいた。エンエンが射撃練習場でピストルの撃ち方を教えてくれた。私は連日800発の弾丸を撃って習熟した。きわどい勝負ではあったが、私は国王に勝ち、可愛いエンエンとおまんこした。 五女オンオン姫(16歳)を賭けた次の勝負、国王はスポーツではなくチェスの対戦を望んだ。スポーツは運動神経と熟練度がものを云う。チェスでは頭脳がものを云う。連敗を喫している国王は、頭脳で私を打ち負かそうとしたわけだ。 エンエンまでは国王の亡き第一王妃の娘たちであった。オンオンからクンクン(11歳)までの王女たちは第二王妃が生んだ娘たちであり、容貌・体型・身のこなしも第一王妃の娘たちとはまるで異なっていた。第一王妃の娘たちは顔立ちや所作もどことなく優雅で、「さすが王女」という感じであったが、第二王妃の娘たちは明るく健康的で、そこらのティーンエージャーとほとんど変わらなかった。 私はオンオンに個人的に会った。16歳のオンオンはポニーテールが似合う丸顔の王女。何と、彼女も処女ではなく、私におまんこしてほしいと手を擦り合せた。どういう王家なのだ、これは! 私のコンピュータには昔から3Dのチェス・プログラムがインストールされていて、私は勉強の合間にコンピュータ相手に一戦交えることにしていた。さらに国王の書庫に行き、何冊かチェスの本を見つけた。序盤、中盤、詰め…に関し、色んな戦法を覚えた。又もや私の勝利。私は王女オンオンの青い身体に私の勃起したペニスを埋め込んだ。 国王は六女カンカン姫(14歳)を餌に、今度はピンポンでの対決を迫った。私は14歳の王女カンカンがセックスに興味があるとは思えず、彼女の部屋で内密に問い質した。彼女はもう処女ではないと云い、私におまんこしてくれと頼んだ。 第一王妃はウンウンとエンエンを年子で生んで他界した。第二王妃は七女キンキンと八女クンクンを年子で生んで他界。第三王妃も11女サンサンと12女シンシンを年子で生んで他界した。国王はいずれの王妃も愛していたから、彼女たちの死を嘆き、心を痛めた。精力溢れる国王には妃か側室が必要だったが、国王はまた愛する女性を失うことを恐れて、再婚も側室を迎えることもしなかった。その代わり、亡き王妃の忘れ形見であるアンアンを愛した…ベッドで。アンアンとの近親相姦が一年も続いた頃、国王の愛は次女インインに移り、アンアンは父のベッドに呼ばれなくなった。そしてさらに一年後、ウンウンが愛され、性に目覚めたインインも御用済みとなった。こうして王女全員が一年ずつ愛されては捨てられ、現在国王は6歳のシンシンを寵愛していると云う。 次の一戦、国王は碁の力量をつけ、七子局(七個の置き石)で私を破った。ピンポンで負ければ、私は国王にフェラチオしなければならない。冗談ではない!国王はピンポンが上手だった。私は若いだけに瞬発力があり、それだけで必死に対抗した。あわや私が負けか?と見えた一瞬、審判の王女アンアン(22歳)が国王の反則を指摘した。私の返球が国王のコートで弾む前に台上でボレーをしたという判定である。国王は抗議したが、アンアンの判定は覆らず、私の勝ちとなった。それが本当に反則だったのか、父に厭きられたアンアンの遺恨か、妹カンカンに私とのおまんこのチャンスを与えたかった好意なのかは、誰にも判らない。 私は14歳のカンカン姫とおまんこした。日本で(いや、世界の先進国どこででも)こんなことをしたら刑務所行きである。それがシャムボジアでは王の公認で許されるのだ。シャムボジアといえど、宮殿を一歩出て少女とおまんこしたりしたら、近代化された法によって犯罪とされ逮捕される。王宮の中でだけ問題ないのだ。 国王の棋力が上がり、ついに四子局(四個の置き石)となったが、私はまだ優勢だった。ボードゲームの一つチェッカーによる対戦も私が勝ち、七女キンキン姫(12歳)も私とおまんこした。彼女の胸は乳首がやっとテントのように盛り上がった段階で、私はその珍しい形の乳首を舐め、ちゅうちゅう吸って楽しんだ。 国王はTVゲームで挑戦して来た。しかし、国王が子供と遊んで覚えた腕・反射神経と、ゲーム機で育った私の能力では比べ物にならない。私は簡単に八女クンクン姫(11歳)をものにした。クンクンの胸は真っ平らで、まるで少年を犯しているかのような倒錯的興奮が得られた。 九女ケンケン姫(10歳)から下は第三王妃が生んだ娘たちで、四人とも独特の顔をしていた。大きな目、笑みをたたえ、めくれ上がった分厚い唇、盛り上がった可愛い顎。子供の顔の造作はもともと可愛く出来ているのに、この娘たちは食べちゃいたいくらい可愛いのだ。 ある日の授業を終えた後、アンアンが私に近づいて来た。 ケンケン姫を賭けた一戦の種目に国王はポーカーを選んだ。長女アンアンが私に贔屓しているのではないかと疑った国王は、次女インイン(20歳)をディーラーに指定した。ポーカーには才能も必要だが、もっと必要なのは運である。インインが指さばきでインチキしたのかどうか定かでないが、私は国王にグンと差をつけて勝ち、10歳のケンケン姫とおまんこすることが出来た。 十女コンコン姫は8歳である。私は一桁の年齢の女の子とおまんこ出来る可能性に興奮した。国王は再度テニスでの挑戦を望んだ。国王は、今度は三女ウンウン(18歳)に審判を命じた。あわや私が負けそうになった時、ウンウンは国王のルール違反を指摘した。私の作戦でネット際に国王をおびき寄せた時、国王のテニス・シューズがネットの外にはみ出したと云うのだ。国王は抗議したが受け入れられなかった。勝った私は、8歳の少女のシミ一つない綺麗な肌を撫で擦り、小さくきついおまんこにペニスを突っ込んで随喜の涙を流した。こんな子供と性交するなんて、思ってもみないことだった。8歳でこうなら、6歳のおまんこだと一体どんな風になっちゃうのだろうか? 十一女サンサン(7歳)を賭けた勝負に、国王は自信があるピンポンをもう一度選んだ。国王は今度は反則を冒さないという固い決意で臨むつもりらしかった。私は事前にサンサンの部屋を訪れた。サンサンは私の勝ちを疑わず、ズボン越しに私のペニスを撫でた。私は彼女の本棚に卓球のビデオがあるのに気づいた。それは世界チャンピオン数名のテクニックを紹介したものだった。私はそのビデオを視聴し、新たに仕入れたテクニックをサンサン相手に試してみた。国王が安全第一で来るなら、こちらは攻めの一手である。私はパワフルなサーブと、スピンを駆使した各種の攻撃法を練習した。 あっけなくサンサンは私のものになった。私は日本なら小学一年生の女の子と交わったことになる。残るは就学年齢以前のシンシン(6歳)だけとなった。 国王は渋った。目に入れても痛くない末娘を私に汚されたくなかったからだ。 国王の碁の実力は二子局(二個の置き石)にまで達していた。もう侮れないということだ。しかし、私は侮ってしまい、負けた。国王が選んだ競技はテニスで、今度はエンエン(17歳)に審判を命じた。デュースやタイブレイカーによって、試合は三時間も続いた。国王も私もへとへとだった。私は功を焦った。そして…負けた。 私は国王の寝室に入った。ベッドの前に全裸の国王が仁王立ちになっていた。そのペニスは半勃起状態である。 「これまでだ」と国王が云った。「もう勝負はやめよう」 国王は韓国からゴルフのプロを呼び寄せ、レッスンを受け始めた。しかし、私は心配しなかった。一週間や二週間でゴルフが上手くなるわけはないからだ。 私は碁の対局に慎重を期した。国王を侮ってはいけない。もはや「鶴の巣篭もり」や「追い落とし」などの奇手に引っ掛かる相手ではないのだ。今回の二子局は、かろうじて私が勝った。ゴルフも接戦だった。韓国のプロから戒められたらしく、国王はほとんどドライバーを使わず、3番ウッドで安全確実にボールをフェアウェイに運んだ。国王の、目一杯引っ叩くドライバーが何度もOBとなることを期待していた私の目算は外れた。となると、ショートゲームが勝敗を分けることになる。国王もその重要性を痛感し、プロから教わっていたようだが、付け焼き刃というものは脆い。国王は何度もゴロを打ったりチョロったりした。私が一打の差をつけて辛勝した。国王はパターをぶん投げて悔しがった。 その夜、私はシンシンの寝室を訪れた。シンシンは、ナイトウェアでも裸でもなく、普段着のまま待っていてくれた。私がそう頼んでおいたのだ。シンシンが私の性のターゲットとなって以来、授業の場で彼女の幼い肢体に見蕩れ、いつかその服をひん剥いて、子供っぽい身体を撫でたり舐めたりする日を夢見ていた。口中に溜まる涎を飲み干すのに忙しかったものだ。だから、シンシンとのセックスはゆっくり時間をかけたかった。いきなりすっぽんぽんでは楽しみが半減してしまう。 シンシンは前髪を垂らし、ロングの髪をアップに結い、大きな目に小さな鼻、厚い唇の可愛い少女。私は立ったまま白いブラウスに黒いスカートの彼女を抱擁した。この数週間夢にまで見ていたこの女の子は、頭が私の胸にも届かないほど小さかった。私が日本でサラリーマンを続けていて結婚していれば、現在このぐらいの娘がいてもおかしくない。国王のように、私も自分の娘と相姦する妄想をしてみた。興奮した。私はあどけない6歳の少女に頬ずりし、彼女の身体を撫で廻した。どこもかしこも少年のように平らである。お尻だけには膨らみがあるが、少年のお尻だってこのぐらいは膨らんでいる。この子はおまんこを持った少年なのだ…そう考えて私はゾクゾクした。私はシンシンのスカートの中に手を突っ込み、パンティ越しに彼女のお尻を撫で廻した。授業中にはしたくても出来ない不純な行為である。私はその手を前に廻し、パンティの上から股の間の割れ目を擦った。シンシンはうっすらと口を開け、うっとりと目をつぶっている。私は彼女に接吻し、舌を彼女の口中に侵入させた。シンシンの舌が出迎え、私と舌を絡めた。いい子だ。彼女の小ぶりの舌はほのかにミルクのような味わいがあった。 私は震える手でシンシンの服を脱がせた。6歳の子をお風呂に入れるのではない。6歳の子とおまんこしようとしているのだ。こんなことは普通許されない。しかし、シャムボジア王室では許されるのだ。私も服を脱ぎ、全裸になった。 私は裸にしたシンシンを抱きかかえ、彼女の上半身だけをベッドに横たえた。彼女の垂れ下がった両脚を広げると、幼い割れ目が剥き出しになった。私は膝をついて彼女のおまんこに見入った。父親に頻繁に犯されている以上、それは清純なおまんことは云えないだろう。しかし、それは綺麗だった。色も形も…。私は割れ目を開いた。粘膜が桜色にてらてら光っている。サイズは小さいが、一人前のハマグリの肉が備わっている。私は6歳のおまんこにかぶりついて、クリトリスから尿道口、膣口まで全部をべろべろと舐めた。 私はベッドに上がり、シンシンの身体を引っ張り上げた。私が彼女の身体に覆いかぶさろうとした時、 シンシンが上下運動を始めた。私は片手を伸ばして彼女の小さな乳首をいじくり、片手でクリトリスを刺激した。 国王との対戦は終った。私は王女たちとおまんこする機会も口実も失い、途方に暮れた。国王に隠れて王女の誰かに手を出せば、首を刎ねられる恐れがある。性欲というものは長く我慢することは可能だが、一旦解き放つと、手綱を振り解いた荒馬同様に猛り立ち、コントロール不能に陥ってしまう。私は王女の一人一人の顔や裸体・痴態・おまんこの味などを思い返し、悶々とし、発狂寸前となった。 ある夜、私の寝室のドアが軽くノックされた。 シャムボジア王室は私のハーレムとなった。 |
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