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45. 頑な美代

「清蔵だけんと…」越後屋の茶の間で、久蔵が妻・美代に云った。性交渉の途絶えた二人は寝所も別々で、茶の間でしか顔を合わせないような状態だった。「最近あいつが色気づきやがったと思わねが?」
「色気づいたなんてもんでねっす」と美代。美代(36歳)は、久蔵の先妻が長女・次女を遺して亡くなったあと後妻として越後屋に嫁いで来た。山形でも指折りの美人と云われていたのは事実で、女優にでも芸者にでもなれる美貌の持ち主だった。志乃がほっそりした体型で瓜実顔なら、美代はぽっちゃり系で丸顔、抜けるように白い肌の持ち主で、年齢とともにふくよかさを加えて肉感的な色気を醸し出している。「清蔵の屑カゴは、“ずろ”(精液)の滲みがついた臭(くせ)え塵紙(ちりがみ)の山だっす」と美代。
「んだべな」と久蔵。「男の14から18は一番やりてえ盛りなだ。へな(女)の身体は見てえ、ちょし(触り)てえ、ぺっちょつうものがどだなもんか知りてえ…考えただけで立っちまってせんずり(自慰)しねではいらんねもんだ」
「そげなもんでがんすか」美代は思春期の男の生理など全く知らない。
「ああ、悩ましいもんだ。清蔵にだげは、おれみでな苦しみ味わわせだぐねど思ってる」と久蔵。
「どげんするす?」
「清蔵にへな(女)抱かせでやりでえ」
「女郎買いなら止めでけらしゃい。病気伝染(うつ)されだら大変だっす」
「んだ。女郎はよぐね」
「貧乏百姓の娘も駄目だ。孕ませだら嫁にせねばなんねがら」
「美代、おめだ。おめが清蔵の相手してやってけろ」
「…」
「どげだ?」と久蔵。
「悪い冗談はやめでけらっしゃい」美代は夫の言葉が信じられない。
「冗談ではねえ。真面目な話だ」
「…」美代がまじまじと久蔵の顔を見る。「あんた、何云ってるが分(わが)ってんのがっす?」
「ああ」
「馬鹿も休み休み云って貰いでもんだなっす!」美代が怒鳴った。「あんた!女房に近親相姦ばさせる気がっ!」
「駄目が?」と久蔵。
「当だり前(め)だっす!自分が生んだ子どぺっちょしろだなんて!」美代がしくしく泣き出す。「おれば獣(けだもの)扱いして…」

「やっぱりな」と久蔵。「駄目だどは思ってだが」
「もう二度とけったいなごど云わねでけらっしゃい」美代が涙を拭く。
「んだら、清蔵ば多賀屋に下宿さす」
「えっ?なして多賀屋が関係(かんけえ)あるす?」美代が訝る。
「多賀屋の女衆(おんなしゅう)が清蔵にやらしてくれるつってるだ。お松つぁんもお志乃さんも多代もおまんも」
「お松つぁんとお志乃さんが?」美代には、ここに50代の松が登場する理由が理解出来ない。
「ああ」
「お多代ちゃんとおまんも?」
「んだ」
「二人はまぁんだわらし(子供)だべ。それにおまんは家(うぢ)の養女でねが!」美代は目を丸くする。
「多賀屋ではの、年齢も親も子も主人も奉公人も、養子も養女も関係ねぐ、自由にぺっちょ出来るだ」
「親も子も…?」
「梅太郎はお松つぁんと多代ともやってるだ」
「んまあっ!獣(けだもの)だっ!」
「んでね(そうじゃない)。自由ってもんだ。みなして(皆で)楽しくやってるだ」
「やげに多賀屋の肩持つでねが、あんたっ!」
「おれもおまんの養父として仲間に入れて貰っただ」
「みんなとやったのがっ?」美代が身体をぶるぶる震わせる。
「ああ。一渡りやらして貰った」と久蔵。
「何が一渡りだ。お志乃さんともが?」志乃は美代の同世代だから気になる。
「ああ。多代ともやったがら、母娘とやったごどになる」
「まあっ。あんたも破廉恥だごどっ!おまんともが?」
「おまんともお松つぁんともだ」
「あだな(あんな)ばんつぁ(婆あ)と!おれとは全然やってくんねで、ばんつぁだのわらしとやりくさって!」美代が久蔵に掴み掛かって、久蔵の胸をばんばん叩く。
「おめにも入(へえ)ってくれって話だ」動ぜずに久蔵が云う。
美代の動きが止まり、凍り付いた。
「おれまで破廉恥になれて云うだがっ?とんでもねえっ!」美代が怒鳴る。
「そう固く考えるでね。人生ば楽しむだ」と久蔵。
「あんたには愛想が尽きただ。清蔵と一緒に出てぐ」美代は憤然と去った。

しかし、16歳にもなった清蔵に理由も分らずに母親について家を出るつもりはなかった。清蔵は母が理由を語らぬので、父にどういうことなのか質した。そして、夫婦喧嘩の原因は自分を奔放な性の館(やかた)に下宿させるかどうかであることを知った。清蔵は父がもたらした夢のような申し出を受け入れ、一も二もなく母親を見捨てた。愛する息子を連れて出て行けないのでは、美代の示威行為は意味がない。美代は口惜しい思いをしながら家出を思いとどまった。明治のこの頃の結婚は家と家との結婚ではあったが、女性は労働力として評価されていたため離婚・再婚の数は現在より多かった。しかし、美代は労働力たり得なかったし、もはや女優になるには遅過ぎたので、夫に構って貰えないという性的飢餓感はありながらも、越後屋の奥様として留まることを選んだのだった。




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